コラム

第1回 菓子屋の息子

第1回 菓子屋の息子

 今回は、「長谷川診断士の作文の時間」の最初のコラムいうことで、皆さんに私の生い立ちをご紹介いたします。

 私は昭和30年(1955年)秋田市土崎港で、父長谷川忠吉と母キヨの一人息子として生を受けました。父母は私が5歳の時に小さな菓子店を開業したため、この後、私はお菓子屋の跡取り息子として成長することになります。

 「ハセ(子供時分の私のあだ名。ついでながら、ハセブーと呼ばれていた時期もあります。)は毎日お菓子が食べれていいなあ!」級友たちにそう羨ましがられながら、小中学校時代を過ごしました。確かにお菓子の摂取量では彼らより格段に恵まれた環境にありました。のちのち「長谷川さんは人間が甘くできている。」と言われるようになった遠因は、この辺にあるのかもしれません。

 そんな私が「お菓子屋を絶対継がない。」と心に決めたのはいつ頃だったでしょうか。中学校に上がるころには自分なりに決心し、両親にも伝えていたように思います。ただし、仕事を優先し家庭を省みない父親に反発したとか、お菓子屋以外にやりたい大きな夢があったとかではなく、自分でも恥ずかしくなるほど情けない理由からでした。

 開店当初から、父は「年中無休、朝9時開店・夜9時閉店」の営業方針を断固として貫いていました。注文が重なり、少年の私を含む家族全員が住み込みの従業員とともに真夜中までお菓子を作る日々も珍しくありません。両親に似ず生来の怠け者で、何をやっても長続きしない怠惰な性質の私は、将来2代目店主が強いられるに違いないこのような多忙で過酷な生活に恐れおののいていました。

 「オレにとって、お菓子は食べるものであって、作るものではない。」その当時の私の偽らざる心境でした。

(次回に続く)